50男の働き方改革~なるか、自営の道~

平成最後の31年4月末、30年近く勤めた会社を希望退職。再就職せず、生きることを目指す50男の記録

【日記5】令和2日目は、姉と父とともに、施設の母を訪ねる。父は「自分の信念に従って」と。

無職2日目。また、uber eatsをしようかな、なんて考えたが、実家で一人暮らしの父を訪ねる方が優先順位が高いと思い、父に電話。姉も来るというので、実家に父を訪ね、姉の車で母の住まう施設に行った。

 

認知症はすでに行くところまで行った感じなので、もはや息子や娘を認識しない母の様子にも慣れっこ。不機嫌なまま訪問を終えることもあるのだが、この日は、姉が持っていった花に大喜びし、私が持っていたプリンにも大喜び。むしゃむしゃと一気に食べてしまい、姉や父がまだ残っているプリンを上げると、これまた大喜びし、母の喜ぶ姿に3人とも大いに満足できた。

 

五月晴れのなか施設内の公園に行くこともでき、笑顔の母と一緒に写真を撮れたことは、とてもいい思い出となった。

 

仕事で疲れていたら、今回の行動には至っていなかったかもしれないだけに、無職になってよかった、と思えた。

 

また、この日は、まだ退社を伝えていなかった父に、退社を伝えた。

父は驚きもせず、「自分の信念に従ってがんばるように」という一言だけを言った。

「自分の信念に従う」という言葉に、感動した。

辞める理由を問うこともなく、非難がましい感じをまったく見せない姿勢にも感動した。

そして、商社マンとしてベネゼエラに何年間も駐在し、その後も海外を飛び回っていた父が、総務部長を経て定年前には健保組合の理事長だったかになっていたこと、私が小学生ぐらいの時だったかに「今の家に住み続けたいか、(東京に)転校しても問題ないか」と問われ、「転校は好ましくない」と答えたことを改めて思い出した。

もちろん、転校なし、父にとっては転勤なしとなったあの時の父の決断は、私たち子供の判断だけを根拠に決めたわけではないと思う。近くに住む親のことも頭にあり、子供の判断は決断を後押ししたにすぎないだろうが、もし子供たちが転校を受け入れていたら、父には東京栄転ということがあったかもしれない、と思う。そして、健保組合で終わる会社人生とは別のコースを歩んでいたかと思う。

そのことを振り返ると、父はすごく子供の意向を大事にしてくれていたと思う。そして、その結果として総務部長、健保組合というコースを歩んだことに、少々の悔いはあったのだと思う。だから、私の決断にも、「(悔いなきよう)信念に従え」といったのではないかと。

 

そういえば、今回の施設訪問の際、職員から「(母が)いっつも、おとうさーん、おとうさーん」と言っているとの話を聞いた。

そして、別れ際、母は「おとうさーん、私の大好きなおとうーん」と言っていた。

姉は「ラブコール!」と感動していた。確かに、母は子供を大事に思ってくれていた父に、感謝していたのだと思う。だから、「おとうさーん」といっつも言っているのだと思うが、ただ、目の前にいる高齢白髪の男性が自分の夫と認識できていないだろうことを考えると、このラブコールは、割と複雑な気分にさせるものでもあったのです。。