【uber eats19】季節のない街に生まれ、季節の流れを感じる
季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち、愛のない家を出て、愛のない人にあう♪
泉谷しげるの春夏秋冬。
何度も歌った記憶のある歌。
自分の境遇とは違うと感じつつも、好んで歌った歌。
その歌詞が、ウーバーやDiDIをやっていると頭の中に浮かんできます。
ウーバーを本格的にやり始めたのが残暑。それから3カ月余り。秋が過ぎ、今日は大阪でも日中の温度が2桁に行かず、寒さが堪えました。おまけに、日中にオンにしたDiDiは継続せず、「2時間頑張って5回配る。締めて2000円以上」という目標は「1時間半で3回、1200円程度」にとどまり、さっさと退散、金を稼げないなら、やるべきことをしようということになりました。
私の頭の中に浮かんでくる「季節」のイメージは春や夏といった四季の季節ではありません。泉谷しげるの歌う季節も単純な「季節」ではないでしょう。たぶん、季節をめでるとかいう余裕のない、だからこそ、愛のない、ということにつながる意味の込められた「季節」だと思います。
私の頭の中に春夏秋冬の歌詞が流れる時に感じている「季節」は、この意味とも違います。昭和47年、私が小学生になるかならないかのころ、泉谷しげるもまだ20代半ばのころに作った曲にある「季節」ですから、50半ばの私の「季節」の捉え方と違って当然です。
私の中の「季節」、それは「もはや、そういう季節ではない」の「季節」です。
「そういう季節は過ぎた」です。
ウーバーなりDiDiをやっていると街中に繰り出すことが増えます。
そこには若いカップルが、ベビーカーに子供を乗せた若い夫婦が、小学生の子供とキャッチボールを、サッカーをする父子が、厭でも目の中に飛び込んできます。
そんな時に春夏秋冬の歌詞が頭に流れてきて、「季節を感じる」のです。
「そんな季節は過ぎ去りました。」
カップルだったこともありました。
ベビーカーに子供を乗せて出かけたこともありました。
子供を公園に連れて行ったことも、もちろんあります。
でも、それらはすべて、私の今の季節ではない。
そう、私の今の季節は、ウーバーの季節、DiDiの季節。。