50男の働き方改革~なるか、自営の道~

平成最後の31年4月末、30年近く勤めた会社を希望退職。再就職せず、生きることを目指す50男の記録

【自営業17】時代と新聞少年とウーバーと

NHKを見ていたら、音楽番組になりました。

三山ひろしが出演。子供のころ、5年間にわたって新聞配達をしたと。母子家庭で祖父母と弟だったかと5人家族で暮らすなか、部活でしていたサッカーのもろもろのものを買うために新聞配達を始めたという話でした。

三山ひろしは高知出身。私の母親の両親が高知出身のため、親近感をもって見ていたのですが、新聞配達を5年もしていたとは、知りませんでした。

 

私も高校のころに新聞配達をしようかと考えたことがあったのですが、「無理」と思ってあきらめ、2週間ほどだけ、午前5時ころから2、3時間程度の中華そば工場で働いたことがありました。なんとなく、いい思い出です。

 

そんな、三山ひろしが歌うのが、昭和40年にはやった「新聞少年」。山田太郎という人が歌っていたとのことです。私のまったく知らない、記憶にない人でしたが、すごくいい選曲に思えました。

 

すでに何年も前から、新聞配達をする少年なんて、いないでしょう。労基法でやられるし、そんなバイトをさせる親もいないでしょうから。いまや新聞配達は、コンビニ店員同様、外国人に頼る時代です。

 

昭和40年と言うのは、私が生まれる1年前。隔世の感を覚えつつ、「山田太郎さんってどんな人なんだろう」と思っていたら、山田太郎さんがスタジオに現れました。矍鑠(かくしゃく)なんてものではありません。壮年の体です。ウィキによると、昭和23年年生まれの72歳。当時、16、7歳。驚きました。爆発的ヒットをさせて55年経った人には見えません。「こんな年の取り方があるのか」と驚かされました。

 

「僕のアダナを知ってるかい 朝刊太郎というんだぜ」

そんな感じで始まり、「今朝も出がけに 母さんが苦労かけると 泣いたっけ」「たとえ父さんいなくても ひがみはしないさ 負けないさ」と続きます。

 

まさしく、三山ひろしの境遇そのもの。

そして、三山ひろしがもっとも気に入っていた部分が「たとえ父さんが・・」に続く「新聞配達 つらいけど きっといつかは この腕で つかんでみせるよ でかい夢」という3番目の最後の歌詞でした。

 

そのまんまですね。

すごいですね。

 

三山ひろしは中学1年の時から新聞配達を始めたそうです。

私、53にしてウーバーを始め、54にして本格的に始めています。

まだ両親は存命ですが、残り火はきわめてか細い感じです。

似てないといえば似てませんが、そう「でかい夢」はあります。

 

「何が言いたいか?」

 

そう。時代は、中島みゆきが歌ったように、めぐるのです。

「いまはどんなに悲しくて、涙が枯れ果てて、もう二度と笑顔にはなれそうもないけど~」

 

そのうち、涙枯れ果てた今が、「そんな時代」になるのです!