【DiDi Uber27】「体が資本」できるありがたさ
「体が資本」という言葉。私が10代のころ、母が何度となく言ってくれて、頭にインプットされてきました。同じくインプットされた言葉として、「継続は力なり」があります。
ともに、「絶対的にそうだよな」「絶対否定できない」と思える言葉であり続けています。
「体が資本」という言葉ですが、これまでは「命あっての物種」と同じ受け止めでした。体がちゃんと動かなければ、病気になってしまえば、どんな仕事であってもできなくなります。「体を動かなければ、家から出れないわけですから、命がないのと同じくらいに仕事ができなる」。そういう受け止めだったのですが、今は違います。
「健康な体をもっているからこそ、DiDiやUberで配達ができる」。つまり、「命があっても、健康な体でなければ、DiDiやUberはできない」。そのことに気づき、「命あっての物種」との違いを明確に感じたわけですが、「健康な体をもっている」ことのありがたさを強く感じていることには理由があります。
日中に街中を走っていると、多くの体の不自由な人を目にするからです。前の会社では外に出る機会の多い仕事とはいえ、それほど体の不自由な人を目にする機会はありませんでした。
東京から大阪に転勤になった際に驚いたことがあります。それは大阪の地下鉄などで目にする車いすの人の多いことです。東京で車いすに乗った人を地下鉄で目にする機会はほとんどありませんでした。ベビーカーでさえ目にすることがほとんどありませんでした。
殺人的な混雑状態にある東京の通勤時間帯の地下鉄などでは、ベビーカーも車いすもとても使えない。健常者でさえ辟易とするのですから、ベビーカーを必要とするお母さんも、車いすが必要な障害のある方々も地下鉄の利用をあきらめていたのでしょう。
でも、比較的に混雑度合いが少ない大阪の地下鉄ではベビーカーも、車いすもよく目にします。障碍者の方が、介助者とともに車いすを使って地下鉄を利用する姿はしょっちゅうといっていいほど目にします。介助者なしで電動車椅子を操る人も多く目にしています。
そんな大阪でも、会社員時代は、ちょっとした障害を体にもつために自転車に乗れないであろう人たちには気づかなかったのです。ですが、街中を日中から自転車でうろちょろしていると、ちょっとした障害のある方々が目に入ってくるのです。
杖をついている人、杖をついていないにしても、股関節などに問題を抱えているのでしょう、うまく歩けない人を歩道などでよく見かけます。もちろん、車いすに乗っている人も多く目にします。彼ら、彼女らは自転車にもバイクにも乗ることができないでしょう。だから、DiDIもUberもできません。
だから、「体が資本」できることのありがたさを身に染みて感じるのです。
昨年末までは、「目標週4万円。週3万円死守」を胸に頑張ってきましたが、DiDiのセレクトパートナーになれた今は、頑張れば時給1500円を楽勝に達成して週5万円を稼ぐことができそうです。
それもこれも、健康な体があるからです。
会社員時代は、健康な体をベースにして仕事をしてきました。健康な体があるから仕事をできたわけですが、今は健康な体をフルに使って時給1500円以上、週5万円の稼ぎを生み出せるのです。つまり、ボクサーや土木作業と同様に「体を資本として稼いでいる」のです。
それを今年55の年になってもできる。時給1000円程度の、スーパーの朝の品出しバイトにさえ受からなかった私です。そのことのありがたさがすごく身に染みています。